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『土浦市総合計画』
土地利用:鬼脇正臣 永喜多廣義 山本義貴
交通計画:江村竜哉 濱木美香 宮川雅至(班長)
土浦市の沿革
近世以前
- 土浦の黎明は、先土器時代に始まり、以来、自然の恵沢と永い年月につちかわれた歴史と伝統に支えられながら、今日の都市に発展してきた。
- 「東寺百合文書」によれば、鎌倉時代に土浦の集落の起源が起こった。
- 室町時代に若泉三朗によって土浦城の原形が作られた。
江戸時代
- 水戸街道の開通(1604年)によって、土浦の城下町の町割りが行われた。土屋氏の支配によって藩が安定化したことが城下町としての発展を促した。
- 江戸の経済と、霞ヶ浦・利根川の水運によって密接に結びつき、常総地方の商業の中心地として栄えた。
明治時代
- 裁判所、警察署、郵便局、土木出張所、新治郡役所、税務署などの諸官公庁舎が、土浦城やまわりの武家屋敷に次々と整備され、この地方の政治、経済、文化の中心としての地位を確立した。
- 明治22年、人口1万の土浦町が誕生した。
- 明治28年、常磐線の開通に伴い、土浦駅が建設され、駅から桜橋にいたるまでの道路沿いが発展した。
大正時代
- 大正7年、筑波鉄道が開通した。
- 鉄道・自動車などの陸上交通の発達により、水運が衰退していった。
- 霞ヶ浦海軍航空隊が設置された。
昭和初期
- 陸上交通の発達により、昭和7〜9年、川口川の桜橋・朝日橋間の埋立てが行われる。
- 昭和15年、人口3万5千の土浦市として市制が施行された。
- 海軍のまちとして進展した。
昭和中期
- 昭和36年の常磐線電化、38年の首都圏都市開発区域指定により、近代化が進み、県南地域における中核都市としての地位はゆるぎないものとなった。
- 昭和40年代、土浦・千代田工業団地の開発により、従来の商業都市に加え、工業都市的性格を有するようになった。
- 宅地開発が進み、昭和49年には人口が10万人に達した。
昭和末期
- 昭和60年、科学万博が開催され、モール505・高架道が整備された。
- 昭和61年、首都圏基本計画において、土浦・筑波研究学園都市地域は業務核都市に位置付けられ、筑波研究学園都市と一体になった発展が期待される。
- 昭和63年、常磐自動車道が全面開通し、市内に2ケ所のインターチェンジが設置され、東京をはじめ県内主要都市との時間・距離が短縮された。
平成時代
- 平成5年、土浦・筑波研究学園都市地域に牛久市を加えた「土浦・つくば・牛久業務核都市基本構想」が国の承認を受けた。
- 平成7年、工業団地テクノパーク土浦北が概成した。
- 平成9年、駅前再開発事業が完成した。
自然環境
土浦市は、霞ヶ浦、宍塚大池や鶴沼、乙戸沼などの湖沼、桜川や備前川、花室川、新川などの河川、筑波山、春になると咲き乱れる桜、台地部の平地林など自然豊かなまちであるといえる。東西に13.1km、南北に15.3km、面積は91.55km2で、河川、霞ヶ浦沿いの低地と台地部に大別することができる。
交通条件
常磐線が市内を東西に縦断しており、土浦駅、神立駅、荒川沖駅の3駅がある。土浦駅からは上野まで70分で結ばれている。
また、道路においては、常磐自動車道が走り、土浦北、桜・土浦インターチェンジがあり、東京方面、水戸方面に高速道路網により結ばれている。
一般道路としては、国道6号、国道125号、国道354号などにより、東京や主要都市と連結されている。
人口構成

図1 土浦市の人口推移
以前は人口は急増していたが、バブル崩壊後、増加は緩やかになった。しかし、現在、県内では人口増加数は4位であり、今後もニュータウン開発などにより、ある程度は増え続けていくと思われる。

図2 土浦市の年齢3階級構成比率
図2を見ても分かるように、高齢化、少子化が今後着実に進んでいくと思われる。
商業

図3 土浦市の流出入比率
土浦市はずっと県南地域の中心都市であったため、流出入比率は1を大きく越えている。しかし、東京への進出、また、つくば市をはじめとする県南地域における大型店や郊外型ショッピングセンターの立地により、流出入比率はどんどん小さくなってきている。再開発事業、商店街の活性化などにより、魅力と個性のある中心市街地の整備が必要である。
首都圏における役割
第四次全国総合開発計画や首都圏基本計画における「土浦・つくば・牛久業務核都市基本構想」の中で、土浦市は、つくば市、牛久市ともに東京に集中する諸機能の一翼を担う業務核都市として位置付けられている。その内土浦市は商業、レクリエーション機能を主に担っていく。